槇野進也YOGAダイアリー
ヨガ指導者がつづる 健康と幸せの流れに乗るブログ
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余震に思う
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 連日、東日本では余震が続いています。




 そんなとき私はふと、数年前の禅寺修行のことを思い出しました。


 あのときの私は極寒での早朝坐禅中にありました。
静寂に沈んでいた禅堂の近くで、突如、大きな炸裂音がしたのです。
私たち修行者はびっくりして目を開きアタフタと左右を見回しました。
どうやら音の正体は、屋根に積もり滑り落ち、地面に衝突した雪のようでした。


 ほっと胸をなでおろした私は、もうひとつの驚くべき光景を目にしたのです。
和尚がまさに不動の状態で、たったひとり坐禅瞑想を続けていたのです。
その姿の美しさに私は感動したのでした。




 私はいま余震のたびに自分の心を観察しています。
余計な恐怖に心を縛られていないか、
自分自身に問いかけています。
そして、あの和尚のようにありたいと願っています。











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『ヨーガ修行記2008』坐禅編~目次
円覚寺夏期講座⑤~桑山紀彦氏『地球のステージ』




 円覚寺夏季講座二日目、第3番手は
桑山紀彦(くわやまのりひこ)氏です。
演題は『地球のステージ』。
 この日、会場である方丈には
スクリーンとプロジェクターなどが用意され、
スタッフと思しき方も待機していました。


 





 「 『地球のステージ』とは世界の紛争や
災害地で出会った様々な人々や出来事を、
ライヴ音楽と映像、スライドによる語りによって伝えていく、
新しいタイプのコンサートステージです。
 これまで学校を中心に、毎年250回以上、
通算2000回を越える公演を行いました 」




 講師紹介には精神科医、医学博士とありましたが、
桑山氏はやや痩せ型の「気さくなお兄さん」といった風貌でした。






 スクリーンに画像が映し出されました。
それは上空から撮った写真でした。
南国でしょうか。青く広がる海。
その海には緑に覆われた島々が浮かんでいます。




 「 ここは東南アジアの東ティモールです。
『地球のステージ』は東ティモールへの支援活動を行っています。
 2002年に、東ティモールはインドネシアから独立を果しましたが、
そのときの騒乱で多くの人々が死に、街は焼けました。
この美しい島でそんなことがあったなんて信じられないかもしれません 」


 画面は街の様子に変わります。
復興はままならないままに、荒れた家々が連なっていました。
スクリーンにちいさく簡素な診療所が登場しました。


「 バイロピテ診療所です。
ここにダンというアメリカ人医師がいて、
たったひとりで医療活動を続けています。
私たちはこのダン医師をサポートしています 」




 そして、東ティモールの子どもたちが紹介されました。
廃材で作った凧をあげて遊ぶ幼児、
診療所に入院する少年、


 「 この少年には二日たっても、三日たっても
誰も見舞いに来る人がいないのですね。
私は『どうして誰も来ないんだい』
とたずねました。そうしたら
『僕の親や家族はみんな死んだ。
だからいつまで待っても誰も来ないんだ。
でも、僕には仲間がいる。
みんな生きていくために必死だから
見舞いには来れないけど』 」


 この後のスライドは、少年が無事に退院し、
仲間たちと一緒に街に戻っていく場面になりました。




  「 私はダンに聞きました。
『ねえダン、ダンはどうしてここで働いているの。
アメリカなら環境も整っているし、お金だって稼げるだろうに』
するとダンはこう言います。
『人間にはどうすることもできない3つのことがあるんじゃ。
ひとつは、生まれてしまったこと。
ふたつは、年をとること。
みっつは、思わず人を好きになってしまうこと。
ワシはここの人が好きなんじゃ』 」




 桑山氏は人情味たっぷりに、
そこでの会話をリプレイするように話します。






  「それでは歌をお聞きください。
タイトルは『燃える街の灯』です」




 海外医療活動した医師がただ報告講演するというのではなく、
映像や音楽を組み込んだココロに残る手法を創りだしました。
桑山氏はギターを抱え、シンセサイザーのサウンドに合わせながら
ご自身が作詞作曲したという歌を歌い始めました。
 スクリーンには東ティモールの子どもたちや
診療所での様子が映されています。




 優しく透明感のある声が会場を包みました。
…素敵な歌でした。








 2009年1月、イスラエル軍によるガサ地区への爆撃が続きました。
これにより、多くの民間人、子どもたちが命を失いました。
昼夜空爆が続く中、桑山氏はガサ入りします。
日本人医師としてただ一人。




  「イスラエルによる封鎖のために、
17万人の人口に1日にトラック2台分しか物資が入らないのです。
貨幣経済は崩壊し、ガサの人々は物々交換をしていました」
桑山氏はガサの状況を伝えます。




 桑山氏は救急救命活動をしながら、
そこに生きる人々からメッセージを託されます。


 「 私たちは孤立し、世界から見捨てられたような気持ちになっている。
どうか私たちのことを忘れないでほしい。
ガサで起こっていることに関心を持ち続けてほしい 」


 絶望感募る最中にガサ入りした桑山氏、
その姿がガサの人々にどれだけ希望を与えたことでしょう。








 次は海外ではなく、
原爆被爆地広島が取り上げられました。
60年前、被爆直後の貴重な映像と、
現在の語り部たちや学校教師の平和への取り組みなどを紹介します。



 
 堤氏の講演でも、ヒロシマが出てきました。
私たち日本人が世界に語り継いでいくべきこと、
それは“ノーモアヒロシマ”かもしれません。








 広島から一転して、今度は
桑山氏ご自身の若い頃の写真が
スクリーンに出てきました。




  「私は小学生の頃、コンプレックスの塊でした。
体育がまったく駄目だったのです。とび箱が跳べなかった。
中学生になって、高校生になって何か変わるかな
と思ったのですが何も変わらなかった。
人と話すことが全然出来なくて…」




 山形で精神科の医師をしながら、
海外ではNGOの医療支援を行い、
みずからNPO組織を運営、
全国各地で『地球のステージ』を展開、
作詞作曲から歌手、ギターやバイオリンまでこなせる
スーパーマン級の活躍である氏の意外な側面が語られます。




  「大学のときに自転車で日本一周したのです」
旅先での人々との出会い、その温かいつながり、
旅の経験が氏を変え、その感動がその後の氏を動かしたのです。








 桑山氏はこの日最後となる5曲目の歌を歌いました。
スクリーンには世界の子どもたちの笑顔と共に
メッセージが次のように記されていました。





 「 戦争や飢えにさいなまれても、
子どもたちは明るさを失わず生きています。
けれど1日8万人の子どもたちが
戦争や飢えでなくなっています。
 子どもたちがすくすく育っていける世の中を
私たちは願ってやみません 」











 関連HP 『地球のステージ』






円覚寺夏期講座④~河野義行氏
  



 7月19日、朝。
円覚寺方丈には昨日にも増して
大勢の人々が詰め掛けていました。




 


 講演者は河野義行氏。
「『松本サリン事件』の」、と言えば
みなさん「嗚呼」とお思いになるかもしれません。




 平成6年6月27日、河野氏は事件に遭遇、
自宅付近からサリンが発生していることから、
長野県警の家宅捜索を受け、
マスコミからも容疑者扱いを受けました。





 私たちはいまという時代の子です。
堤未果氏は9.11に遭遇し、人生を大きく変えました。
では河野氏は?事件からいかなる運命を辿ったのでしょうか。 







***********************************************







 河野氏はがっしりした体型で四角形の顔の輪郭、
「信念の人だ」と第一印象に感じました。






 河野氏はゆっくりと力強い口調で話し始めました。


 「 いまから15年前、1994年に起きた松本サリン事件。
それからわずか2日間で私は、
殺人鬼と呼ばれるようになったのです。


 6月27日、飼っている犬が突然
口からアワをふいて痙攣を起こして死んでいく。
続いて、妻が口からアワをふきます。


 私はもちろん救急車を呼びました。
私はこのことで事件の第一通報者となったのです 」


 河野氏自身の口から悪夢としか言いようのない
夜の出来事が話されました。
これは始まりに過ぎなかったのです。






 「警察は事件の一番身近な人間から疑ってかかります。
そして、物証と経験則から犯人を割り出していくのです」
と、河野氏は解説します。




 「 では、なぜ私が殺人者とされたのか?
3つの不審な点があると警察は言うのです。




 あの夜、私は救急隊員を誘導したいがために
玄関まで行きました。
 それが、警察の経験則から「不審な行為」ととられたのです。
後からこう言われました。
『普通は苦しんでいる奥さんのもとを離れませんよ』




 第二の不審点は、翌6月28日に事情聴取を断ったことです。
私は39℃の高熱と幻覚に苛まれていました。
とても事情聴取を受けられる状態ではなかったのです。




 第三は、『河野さん、昨日は何をしていましたか』の問いに
私は答えられなかったのです。
そのとき私は長男に聞きました。『何をしていたかな』と。
 これは不審がられても仕方がないかもしれません。
ですが、サリンを吸うと記憶が飛んでしまうのです。





 私は薬品を所持していました。
写真の現像のための薬品。
また、陶芸のための薬品もあったのですね。






 6月28日、自宅が強制捜索を受けます。
同日、長野県警は記者会見を開きます。
『会社員宅で薬品が調合された』
『押収した薬品が特殊』
それを実名発表したのです 」


息詰まる話は続きます。





  「 私はサリンにやられて体に不調を感じ、
長男に『もうダメかも知れない』と話しました。
『死ぬかもしれない』という思いからです。
それが報道では『(事件を起こしたから)俺はもうダメだ』と
書かれたのです。


 さらに『毒を盛られたかも』と話したことが
いつのまにか『薬品の調合を間違えた』にすり替わっていたのです。


 わずか2日間で、マスコミは私が犯人であるかのように書き立てました 」


 マスコミの情報源が警察からのものに偏っていること、
情報を検証する部門がないこと、
そこに原因があると河野氏は分析します。 






 「 翌、6月29日、入院している私のもとに、
長男が血相を変えて飛び込んできました。


 自宅に強迫と無言の電話が続くと言うのです。


 『電話番号を変更したい』
というのが、長男の訴えでした。  
ですが、私は『一歩も引くな』と言いました。


 『私は何も間違ったことをしていない。
おかしいのはそのような電話をかけてくる人たちだ。
卑屈にならずに堂々と応対しなさい。
「父はいつでも貴方と会って話をします」と。
そして、心の位置を相手より少し高く持とうではないか』


 息子には辛いことを言ったのかもしれません。


 状況は変えることはできません。
ですが、どのような状況にあっても
心の位置は変えることができます。
それを息子に伝えたかったのです 」




 33日後、河野氏は退院させられました。
「あの病院は犯人をかくまっている」
という世間の噂を病院側が恐れたのです。
その日は37,6℃の熱に下痢の症状があったそうです。




 「 そんな体調で警察署に出頭しました。


 まず、ポリグラフの承諾書に私はサインしました。
嘘発見器のことですね。
でも、これは任意です。
ですから、みなさんはくれぐれもサインしてはいけませんよ(笑)


 私はそれで少しでも身の潔白が証明されたらと思ったのです。
ですが、私のこの考えは間違っていました。



 
 1時間にわたって質疑応答が行われました。
そして終了後、担当官はこう言うのです。
『やはり機械は正直だ』と。
 私は詳しい説明を求めました。
すると『息子に証拠隠滅させたという項目で針が振れた』
と言います。
 私は食い下がります。
『ポリグラフの記録用紙を見せてくれ』と。
『それはできない』と担当官。
 

 たった5分で話は終わりました。





 次に担当官は伝聞の情報を私にぶつけてきました。
身の潔白を訴え続ける私に、
『河野さん、いまなら間に合いますよ』
と、今度は揺さぶりをかけてきました。
『いま、認めるなら過失致死罪で罪が軽くなりますよ』と。
もちろん私は突っぱねました。
 第一、罪の軽重を決める権限など
一担当官にあるはずがないのです。




 7月30日、7時間半の尋問でした。
「事情聴取は2時間を限度とする」
という主治医の意見書は完全に無視されました。




 尋問は高校1年の息子にも及びました。
刑事3人が息子を取り囲みます。
そして、こういう台詞を使うのです。
『親父はもう全て吐いた』と。


 すると息子は、
『親父はそんことをするはずもないし、言うはずもない』
と言ったのです。いい息子でしょう(笑)
 でも、危なかったのです。
場の雰囲気に飲まれて、
私も息子も何を言わされていてもおかしくなかったのです。






 7月31日、私は自白の強要を受けました。
昨日までの担当官とは別人でした。
脅し役がいるのですね。
『お前が犯人だ。さっだと罪を認めろ!』
脅しは1時間半に及びました。


 『私は捜査の協力のためにここに来ている。
だが、このような仕打ちを受けるなら帰る』
と、私は席を立ちました。


 刑事側はあわてました。
担当官も来て、私をなだめこう言います。
『河野さん、何もやってないことは
あなたが証明しなければならないんだよ』


 この日も7時間半でした。




 私は精も魂も尽きました。
そんな私に警察は
『河野さんお疲れ様でした。明日も出てきてください』
と言うのです。



 私は弁護士や友人たちに集まってもらい、
今後のことを相談しました。
そして、事情聴取拒否を決めたのです 」





 河野氏は、ただ事件に巻き込まれ
翻弄された人ではありませんでした。
氏は戦ったのです。







 「 事態は悪化していました。
『警察は何をやっている』との世間の批判が高まれば、
警察は強行的にでも私を逮捕するでしょう。


 私は逆にマスコミを利用することにしました。
マスコミのなかから2社を選び、情報を流したのです 」
 



 河野氏は情報戦を展開しました。
また、化学の専門家を弁護団に招いています。




 戦いは続きました。
年が明けた1995年、少しずつ風向きが変わりました。


     1月1日、上九一色村からサリンの残留物が発見される。
     2月6日、氏、マスコミに対し訴訟の用意があると発表。
     3月3日、氏、人権の救済を日弁連に求める。
     3月20日、氏、地元新聞社を訴える。
     同日、『地下鉄サリン事件』


 ついに、6月12日、長野県警が「河野氏事件に関与せず」と発表しました。 





 「 振り返ってみると、
『よくつぶれなかった』、
というのが正直な感想です。


 

 その理由は二つあると思います。




 そのひとつは、意識不明の妻が生きていたこと。
もし、私が殺人者となれば、
その妻を受け入れてくれる病院はない。
それだけは避けなければならない。
この想いが私を支えたのです 」



 氏の妻、澄子さんは14年に及ぶ闘病生活の末、
2008年夏、帰らぬ人となりました。




 「もうひとつの要因は、私はけっして孤立しなかったということです」




 そうなのです。四面楚歌の状況にあっても
氏を助ける人々が登場するのです。




 「 事件後、すぐに私は恩師に連絡を取り、
弁護士をつけてもらえるように頼みました。



 恩師は熟慮の後に、
ハラの坐っている物怖じしない人、
忙しすぎない、つまりきっちり面倒を見てくれる人、
この二つの条件に見合った弁護士を探しました。


 そして、永田恒久弁護士に頼みに行ったのです。
当然でしょうが、永田弁護士は
弁護代がきちんと払えるのかを訊ねました。
もし逮捕されたら、私の収入源がなくなるわけですから。


 恩師はこう言いました。 
『河野は必ず払う。だが、もし払えなくなってもワシが払う。
これは手付金だ。受け取ってくれ』
と、200万を差し出したそうです。
永田弁護士はこれには手をつけませんでしたが。




 この依頼を引き受けることに、
周囲の全員が猛反対したそうです。
 世間ではトンデモナク悪い人を弁護すると、
その人も悪い人なのです。
事実、永田弁護士にはその後の1年間、
仕事がまったく入らなかったのです。




 永田弁護士は私に言いました。
『河野さん、私はクロをシロにするような弁護はしないよ。
もし、貴方の言っていることが今後くつがえるようであれば、
私の弁護士生命は絶たれるでしょう。
私は貴方と心中するつもりです』と。





 また、私は会社を首にならなかったのです。
取引先などから『いつまで殺人者を雇っているのだ』
とクレームがありました。社内がゴタゴタしたとき、
社長は主だった者を集めてこう言ったそうです。
『世間ではいろいろ言っている。
だが、まだ何もわかっていないではないか。
ウチは就業規則通りにやる』


 私に給料がきちんと振り込まれました。
それどころかボーナスまでも。
社長はカンパを募り、250万集めてくれたのです。





 また、親類は誰一人として、
私の写真を渡しませんでした。
当時、マスコミは私の写真を欲しがったのですね。
1枚70万円の値がついたと聞きます 」





 

 河野氏はその後の15年間、
ご自身の体験をふまえて、
犯罪被害者救済の不備を訴え、
冤罪被害者の支援を重ねるなど
様々な社会問題に関わってきました。



 最後に河野氏は、加害者の家族も
被害者の家族と同じようにケアされることの大切さを、
そして刑期を終えて帰ってきた人々への理解を求めました。
いずれの人々にも私たち世間は冷たいのです。
















円覚寺夏季講座③~堤未果氏
 
 7月18日、最後の講演者は堤未果(つつみみか)氏です。
著作家、ジャーナリスト。




 演題は『9.11以降試される私たち』です。





 あの世界を震撼させた9.11米国同時多発テロの際、
堤氏は世界金融センタービルの20階にある
米国野村證券に勤務していたのです。





 堤氏は上品なかわいらしい容姿をなさっていました。
この方が鋭敏なるジャーナリストであることが
これからわかることになります。







****************







 2001年9月11日、
衝撃音とともに一機目の飛行機が、
隣の世界貿易センタービルに激突しました。
堤氏はオフィスの壁一面のテレビ映像で知ります。





 「私のデスクから世界貿易センタービルまで、
あそこのふすまくらいでしょうか」
と、堤さんは会場の一角を指差しました。
ふすままでは10メートルほどしかなかったのです。




 「二機目が激突したときは震度6くらいの揺れがありました。
私は床に激しく投げ出されました。
テレビ画面は一斉に真っ黒になりました。


 ニューヨーク勤務のいわば超エリートの証券マンたちは、
その時どんな姿だったと思いますか?


 いつもは冷静沈着で莫大な金額の株を売買している人たちが、
みんな携帯のボタンを必死にプッシュしている。
この時、ニューヨーク中の人々が携帯発信しているから、
パンクしてつながらないのですね。
それでも、自分の携帯だけはつながると思い込んでいる。
みんなパニックになっていました。


 日本人たちだけは、椅子に座って離れないのです。
彼らが冷静だったかと言うとそうではないのです。
みんな上司の判断を待っていたのです。
その上司は日本本社に電話して
どう対応したらいいかお伺いを立てている。


 私たちは階段に殺到しました。
そのとき初めて気がついたのです。
エレベーターは金ぴかなのですが、
階段は普段使われることがなく、
狭く薄汚いことに。


 カラダの不自由な方、高齢者、
子ども、女性の避難が優先されたのでしょうか。
 とんでもない!
アメリカを代表するような立派な企業マンたちは、
パニックに陥りみんな口々に、
あられもない事を叫びながら
我さきへと階段を下ったのです 」






 混乱の渦中にありながら、
堤氏はすでにジャーナリストとしての
観察する目を働かせています。






 「でも、本当に私が怖かったのはこの後からの
アメリカの変貌なのです」
と、堤氏は鋭く言いました。




 「 アメリカ社会は『サラダボウル』と言われていました。
人種、民族、宗教、様々なものが混在しながら調和している社会のことです。
 

 私のマンションにも、いろんな人が住んでいて、
ドアにはそれぞれの出身国の旗が掲げられ、
それぞれが信じる宗教のシンボルが飾られていました。


 ですが、事件の後に私がマンションに戻ると、
すべてのドアの前には星条旗が掲げられていたのです 」


 堤氏はグングン話を進めます。





 「 テレビには煙を上げるビルの画像がずっと流されていました。
そして、犯人とされる男たちの顔写真が発表されました。
『敵はコイツらだ』と。


 マスメディアは国民たちの不安をあおりました。


 人々は銃を買いに走りました。
アメリカでは運転免許証で銃を買えるのです。
ですが、銃を2挺、3挺と増やしても不安は消えないのですね。
 

 『もうすぐ死ぬ』
『いつ死ぬかわからない』
と、人々は恐怖に駆られました。
どうせ死ぬならと、この時期に
結婚率と離婚率が急激に跳ね上がりました。


 ブッシュ大統領の支持率も跳ね上がりました。
何と92パーセントです!
オバマ大統領就任時の支持率を上回っています。


 アメリカはテロへの憎しみと不安と恐怖でひとつにまとまったのです。
アフガニスタン、そしてイランへと攻撃が始まりました 」

 








 堤氏は失意のうちにアメリカを離れ、
日本に帰ります。


 「憧れだったアメリカに裏切られたと思いました。
自由の国、民主主義の国、アメリカンドリーム。
 これまで夢中だった恋人の嫌なところが、
別れた途端にいっぱい目に付いてきたみたいに。


 当時はまだこのような言葉もなかったのですが、
実家でニートのような暮らしをしていました。
 ですが周りが許してくれないのですね。
『若い者が仕事しないで何をやってるんだ』と。
どっさりアルバイト情報誌を渡されました 」




 堤氏は通訳の仕事を始めます。
運命とは面白いですね。
 そんな堤氏のもとに、
イラン人医師と9.11遺族の会から
平和講演の通訳の依頼があります。





 「 私は彼らにどうしても知りたくてたずねました。
『なぜ、ヨーロッパやアメリカではなく、
日本を選んだのですか?』と。


 日本が被爆国でありながら民族主義に陥らず、
平和のために過ちを繰り返さないと言ったこと、
そして日本の憲法第9条を彼らは高く評価していました。


 そんな日本人なら自分たちの訴えも
理解してくれるはずだと 」




 米国がイラン攻撃に放射能兵器『劣化ウラン弾』を使用したことを知りました。
劣化ウラン弾の詳細は省きますが、イラクの土壌を半永久的に放射能汚染し、
新生児や子どもたちからはじまり、米軍兵士にまで被害がでているのです。





 「 9.11遺族の会はイラク、アフガニスタンにツアーを組んで
遺族の家を一軒一軒たずね歩きました。
はじめは罵倒されます、何時間も。
ですが、絶対に反論しない、話を最後まで聴くことが彼らのルールです。


 これは生易しいことではありません。


 何時間も罵倒し続けると、その人たちの表情も変わってきます。
そのときに伝えるのです。『私たちと手をつなぎませんか』と 」







 堤氏は、自らの目で見て何が起こっているのか
確かめたいとアメリカに飛びました。




 「私はジャーナリストになりました。
これはアメリカのビジネスパーソンが使う手なのですが、
とにかく先に名刺を作っちゃうのです。中身は後からついてきます。
その名刺を持って、取材を続けました」

 


 堤氏はアメリカの貧困層や弱者に目を向けたのです。





 「 9.11でアメリカ国民が恐怖のパニックに陥ったとき
政府は軍事費の引き上げとともに三つの法案を通しました。


 ひとつは社会保障費の削減
 ひとつは個人情報の一元化、管理社会ですね。
 ひとつは民営化です。


 格差は急激に広がりました。
社長クラスと一般人の間の年収は
いまでは600倍もの開きがあるのです。


 

 社会保障費の削減と医療の民営化により、
中間層でも少し病気をしただけで貧困層に転落します。
『自己責任』の名の下に失業保険もないので、
いったん転落すると労働クラスにカムバックするのは並大抵ではありません。

 
 学費も跳ね上がりました。
ローンや奨学金で大学を卒業しても
経費削減、リストラで仕事なく、
借金が返済できません。 


 貧しい学生には軍のリクルーターから、
入隊の誘いがきます。
個人情報が軍に回っているのです。
そうして反戦者でも生活のために戦争に行くのです。


 また、派遣会社からも貧困層に勧誘があります。
素晴らしい給与と条件です。
ですが、勤務先はイラク。
戦地での警備・兵士のサポートをする仕事です 」

 




 足立老師や佐治氏の講演のように、
会場から笑いは起こりません。
 つめかけた人々は何かに飲まれたように
堤氏の話に心奪われています。




 私もカラダに力が入っていたことに気づきました。
私は深く息を吐き、そして会場の外を眺めました。
深い緑が陽光を受けて輝いていました。
円覚寺は美しい。





 堤氏は『経済的徴兵制』という言葉を使いました。
アメリカ軍隊までもが民営化されているというのです。
非戦闘業務一般を請け負う民間の会社があるのです。
戦争がビジネスになっているのです。
それを担うのが貧困層の人々なのです。




 2008年、著書『ルポ 貧困大国アメリカ』が
30万部を超えるベストセラーになりました。
上記の指摘が多くのメディアで絶賛されたのです。
日本エッセイスト・クラブ賞、新書大賞2009の二つを受賞しました。



 世界の暗部に切り込んだ本が売れて評価を受ける、
日本社会の健全な部分を私は嬉しく思いました。






 堤氏はイラクからの米軍帰還兵の言葉を紹介してくれました。
彼らはアメリカに帰国しても心の病に悩まされ、
ほとんどが満足な仕事にありつけません。






 「 敵はアメリカ政府であり、大企業であり、
情報操作するマスコミだと思っていました。


 アメリカに帰ってきて、それが
間違っていたことがわかりました。


 本当の敵は、自分たち国民の
無関心、無知、あきらめだったのです 」





 


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